姉川古戦場

付近住所 滋賀県東浅井町三田・野村


元亀元年(1570628日 戦いは午前5時ごろに始まり午後2時ごろにはこの姉川をはさんで北に陣取る浅井・朝倉連合軍は約18000人、かたや南に織田・徳川連合軍も約28000人でした。徳川方から仕懸けられたこの戦いは最初、浅井・朝倉軍の方が優勢でした。織田方は十三段構えの陣を十一段まで突破され、信長の面前に刀・槍が突き出るまでにまいりました。しかし徳川軍の力戦によって朝倉軍が後退したため浅井軍は右翼から崩れはじめ、これに力を得た織田軍も総攻撃に転じついに浅井・朝倉軍は小谷城へ敗走することとなりました。この戦いによる戦死は浅井・朝倉軍は1700余人、織田・徳川軍も800余人とみられ、負傷者はその3倍にもおよび、清らかな姉川の流れも数多くの死傷者によって赤く血に染まったと伝えられています。当時、浅井長政26歳、織田信長39歳でした。この後、一時、和議が成立しましたが、天正元年(15738月 浅井氏は小谷城において滅びました。この戦いは信長の天下統一のきっかけと言われています。左の図は、この戦いの各軍配陣図ですが、これにも各種の説がありその一つです。